S3-A-1
  • [ Arts for care ]

平安京の時代から引き継がれる「アラカジメ」の思想

Theme3は「Arts for care」と題し、人びとの安心のためにクリエイティビティを結集してきたお寺の「ケア」の思想や技術を取りだしながら、いま・これから求められるお寺の福祉のありかたを考えていきます。初回となる本稿は、平安京の時代にさかのぼり、今お寺が建つこの場所に流れている精神性を掘り当てていきます。


平安京のグリーン地帯

 住職からお寺の建て直しに関する相談を受け、初めて勝巖院に足を踏み入れた時のことをよく覚えている。山門をくぐると、本堂に向かってまっすぐと伸びる石畳の道があり、その奥に一本の松が凛と構えていた。それはどこか能楽堂の「鏡松」を思わせる貫禄とともに野生味を放ち、この場所のなにかを物語っているようだった。

私たちは令和七年[2025]の春に勝巖院やその周辺の歴史のリサーチをはじめた。お寺として400年以上の歴史をもちながら、お寺が建つ場所としての歴史は平安時代にまでさかのぼる。この土地はかつて平安京の大内裏があった場所のすぐそばにあたり、ここに蓄積されてきた時間や物語を引き継ぐためには歴史の深海まで潜っていかなければならなかった。

手はじめに、お寺のすぐ近くにある平安京創生館を訪れた。そこには平安京の復元模型がある。その模型で平安京の北極星にあたる大内裏を見ると、その西向かいにそれと同サイズの松林が広がっていることが一目で分かった。

その一帯は宴松原(えんのまつばら)と呼ばれ、平安京内の他の庭園とは異なり、ここだけ異様なグリーンが広がっていた。お寺が建つ場所は、その宴松原の南東部分にあたり、承和元年[834]には弘法大使・空海によって密教の加持祈祷を行う〔真言院〕が設けられている。このように浄土宗のお寺として開山される安土桃山以前にも、ここにはさまざまな歴史が積層されてきたわけだ。

宴松原はその名の通り、饗宴が行われていたという説もあるが、どうやら内裏の建て替えの予備地として確保されていたという説が有力らしい。一定のスペースをあえて(空)けておき、その間に木が植えられた(閑)、まさに空閑地である。ここには日本の神社に馴染みのある「式年遷宮」に似た発想が垣間見える。

「空」というコンセプト

 式年遷宮は、20年・30年といった周期で社殿などをすべて新調し、神様をその新しい社殿に遷す儀式である。ここでは神様が常に清新な状態にあり、その永久性を保つための工夫として、今社殿が建つ場所とは別に「あえて」もうひとつの敷地が用意される。意味と予定が詰まった空白地帯だ。

見た目の上ではただの空地にすぎないが、それは「あえて」準備された場所であり、いずれ満たされていくことを予期した〔空っぽ〕である。空っぽなのに、すでに意味が充満しているといえば不思議な表現になるが、どこかそれは仏教の「空」の思想にも通じていく。

また、場所をわざわざ遷すという時間と労力がかかることを「あえて」設けることにより、生涯で2〜3回ほど遷宮に立ち会うことができる期間が用意されている。それは宮大工などの建築技術や祭祀の精神が、人から人へと継承されていくための時間の流れを読んだ仕組みにもなっている点で注目に値する。

宮中のグリーン地帯〔宴の松原〕に至っては、建て替え要地としての役割を果すことはなかったが、ハレの日は余興の場として、また火事や地震が起きた際には広域避難所として、日常ではない場面や状況にしなやかに対応するためのバッファーとして機能したことが推測される。

この歴史的な見地から、今お寺が建つ場所を見つめるとき、お寺の広大なスペースはすぐそばの地域の暮らしにどんな「余白」や「ゆとり」をもたらすことができるだろうか。

アラカジメの思想と実装

 勝巖院はお寺の再建プロジェクトの第一弾として、本堂広場と方丈庭園の修復工事[〜2026.3]を現在進めている。まず、人びとが安心してくつろげるスペースをお寺に取り戻す、住職の長年の想いが詰まった計画だ。

その〔庭〕というものをよくよく考えてみると、それは衣食住に比べると必ずしも必要なものとはいえない。ではなぜ人は庭を求めるのか。それがないとさびしいからであり、心もとないからではないだろうか。今すぐに必要ではないかもしれないが、いざという時に居場所や逃げ場になる。そういう「ケアの場」としての可能性を〔庭〕は常にひらいておくことができる。

ここに〔宴の松原〕の時代から脈々と受け継がれるものとして「アラカジメ」という思想を取り出すことができる。予測・予定・予防をはじめ、その言葉の多様さをみれば「アラカジメ」の文化が至るところにはぐくまれてきたことは容易に分かるが、この国は「予祝」にまでその工夫を巡らせ、春先には予め豊作を祈り、祝うことまでやってきた。

未来を祈り、守る方法としての「アラカジメ」。その本質は結果ではなく、事前に準備・対応するプロセスの中に自身や周囲への気づきや気配りがもたらされる。その道中にこそある。考えられた「ゆとり」は、常日頃から場やそこに関わるものの関係性を豊かに耕し、ムダを排除した効率性にもとづくシステムよりも、いざという時に強く機能する。

修復前の方丈庭園の景色(2025.10.12)

これからのお寺づくりを見据えて庭づくりを進める勝巖院は〔宴の松原〕に宿された発想や工夫をゆるやかに引き継ぎ、人それぞれに必要なケアとコミュニティのつながりを予め確保していくことを考えながら、〔庭〕という空間をさまざまな形でひらいていく。

庭師とともに四季ごとに庭を手入れするコミュニティ会員(庭守り)制度をはじめ、予防のプロセスにwell-beingなものの見方や生き方を見出す鍼灸師の診療訪問、口のさびしさを幸福に満たす和菓子の振る舞いなど。

ゆとりの中にアソビや実験を忘れず、ケアの場としての〔庭〕の可能性を探究していく。その先にまたグリーン地帯が広がっていくこともどこかで夢見ながら。

執筆 : 佐伯圭介(プロデューサー)

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