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  • [ Live with others ]

他力問答 : ジリキの坂道からタリキの風吹く丘へ

Theme 2は「Living with others」をテーマに〔他力〕を広義に捉え直し、他者とともに生きることや、これからのお寺の場づくりについて考えていきます。初回となる本稿は〔他力本願〕がうまれた原初の物語の話から〔他力〕がはたらく場の条件について、住職とプロデューサーが対談形式で語り合います。

語り手 : 立田歓学(勝巖院 23第住職)
聴き手 : 佐伯圭介(プロデューサー)


他力本願の本当の話

佐伯 「個」としての能力や存在感が求められる現代では、他力本願が「人任せ」のようなネガティブな意味で流用されることが多くなっています。

立田 そうですね。仏教が説く〔他力本願〕とは真逆の意味で使われていることが多々あります。ただ、本来の意味と異なるということよりも、どうして「人任せ」のような一辺倒の意味しか見いだせなくなっているのか。むしろその背景や状況に目をむける必要がありそうです。

佐伯 まずは本来の〔他力本願〕の意味をもう一度教えてください。

立田 他力本願の〔他力〕とは阿弥陀仏による“はたらき”のことを指します。阿弥陀さんが仏になる前の修業時代の話です。その頃の名を(如来になる前の)法蔵菩薩といいますが、その時「あらゆるものが仏の願いを信じ、少なくとも十回念仏しても阿弥陀仏の国に生まれることができないのであれば、わたしは悟ることはしません」と言った。すなわち、すべての人が救われることを願って(これを本願という)、仏になられた。だからどんな人でもその願いをありがたく思い、念仏を唱えることさえすれば、その祈りは仏に届き、救われる。阿弥陀仏によってどんな人でも救われる道がすでに用意されている。これが〔他力本願〕の本当の物語です。

佐伯 なるほど。阿弥陀仏の本(もと)の願いがすでにそこにはあり、約束されているわけですね。そういう大きな力に預かれることは、末法の世が叫ばれた時代や戦国の世ではありがたく迎えられたことが想像できます。一方で、今を生きる人にとって念仏を唱えるだけで救われるという感覚は、時代の状況も変わっている中ではリアリティを帯びない部分も出てきていると思うんですよね。

立田 時代の変化を踏まえて〔他力〕というものを見つめるとき、そもそも〔他力〕はどんな状態の時にそれに気づき、受け入れることができるだろうか。そういうことを立ち止まって考える必要がありますね。

佐伯 例えば、凡夫としての自覚みたいなことでしょうか。

立田 まさにそうです。自身の平凡さや弱さを自覚する時に、はじめて周囲の優しさや計らいに気づけるということです。先ほど紹介した(阿弥陀仏になる前の)法蔵菩薩もそうですし、念仏による救いの道を見つけた浄土宗の祖・法然さんでさえ、悟りの境地に至る手前では「わたしなんて凡夫ですから」という自覚とともに、景色の見え方を変えてきた部分があるわけです。

佐伯 他力の対極となれば、すぐに〔自力〕の発想が持ち出されますが、自力でできるのはここまで、ここから先は力およばず。そういうある種の弱さや限界を自覚したところに、他力に預かれる余地が生まれてくる。他力の手前には〔自力〕の自覚があるということに気づけると、自力と他力は反発するものではなく、補完しあう関係にあるといった見方ができますね。

立田 凡夫も、決して平凡や愚かといったネガティブな意味ではなく、そこにはいつも弱さから出発する勇気があること。そこにこそ目を向けたいものです。

他力の風が吹くところの話

佐伯 自分の弱さに自覚的になれると、目の前の景色から受けとることができる情報の量も質も変わる。一方で「一番近くの他人」である自分を振り返ることは簡単なことではない。身体的にも、精神的にも素直になれる場所や環境を考えていく必要がありそうです。

立田 今、社会は「多様性」に象徴されるように、たがいのちがいを認め合う方向に進もうとしています。ただ、その前提に敷かれたシステムはなかなか変えることができません。企業も学校も競争や成長のロジックが常にどこかではたらいています。その中で求められる「多様性」というのは、どこか個性や能力が切り立っていかなければならない感じがあります。

佐伯 そうですね。その〔競い〕が決して悪いということではなく、個性がいつも競い合っている状態だけではなく、〔重ね〕〔合わせ〕の中で色づいていくような個性のありかたですよね。そういう関係性がはぐくまれる場や環境が、家でも学校でもない、地域の中のお寺に求められる部分ではないかと思います。

立田 家でも学校でもなかなか弱さだったり、うしろめたさみたいなものを吐露できる場は多くないですよね。少し息苦しいところから逃れて、肩の力を抜き、立ち止まる。社会のいろいろな事情から一時的に離れ、忘れかけていた自分の本当に気づく。そういう場所としてお寺の環境が機能できる部分はたくさんありそうです。

佐伯 かくれ寺、かけこみ寺のような言い方もありますが、そういう場所としてお寺をひらくとき、改めて他力の〔他〕にあたる「他者」を想像しなおす必要があるかもしれません。

立田 他者とは生きている(他)人のことだけではないと思います。少し前に触れた阿弥陀仏は仏像のすがたで現前する最もわかりやすい他人ですし、今はなき故人も、庭に咲く植物も、そこを訪れる鳥虫も、そこにはいろんな存在が含まれてくると思います。

佐伯 お寺には仏さんにも死者にも動植物にもそれぞれの居場所がありますね。本堂だったり、お墓だったり、庭だったり。その場所がしかるべき時に、しかるべき人に対してひらかれることによって、その場所がもつ「やさしい力」が機能する。それぞれの場がもつ「はたらき」を温め続けること、それをいつでも引き出せる状態にしておくこと、またそれを創り続けること。お寺の場づくりにはそういう視点が必要になると思います。

他力をソウゾウしていく話

立田 勝巖院の向かいにはサービス付高齢者住宅があります。そこの入居者の方がよく境内を散歩しておられるのですが、長らく手入れができていなかった庭に腰かけてくつろがれていた。私はこの時にハッとさせられたんです。

佐伯 ひらいていないつもりでも、ひらかれている場所として庭があった。

立田 そうなんです。現在は本堂と方丈の庭を一体的に修復しているところですが、室内で過ごされる時間が多い入居者の方にとって、目と鼻の先にあるお寺の環境としての価値をいろいろと考えさせられました。

佐伯 庭はこの春(2026.4)に生まれ変わりますが、庭は手入れが必要な場所であり、これから守っていくためにはある程度の人手もお金も必要になります。「守る」という理想の状態を見つめながら、守られていくプロセスにあるお庭の(使われかた)を福祉や教育的な観点から考え、地域コミュニティにひらいていきたいですね。

立田 そうですね。また今回、お寺の再建にあたり、長らく蔵に眠ったままになっていた「中将姫」の縁起絵巻を引っ張り出しました。奈良時代に生きた伝説の姫といわれる彼女自身の生きざまについても、いまを生きるひとの共感を招き、それこそ〔他力〕としてはたらく部分もあるかもしれません。

佐伯 故人の思いや生き方が残された者にはたらきかけることは、しばしば起こることですよね。そこにも他力の磁場がある。ただ、それが他力となってだれかに働きかけるためには、そこに「文脈」が必要となります。いま、中将姫の物語を語れる人はだれなのか。語られる場所はどんな舞台であるべきなのか。中将姫という〔他力〕をひらくためのイマジネーション(想像)とクリエーション(創造)が求められます。

立田 〔他力〕となれる人や物が存在していても、それがひらかれていく文脈としての場面がなければ、つながりも救いも生まれてこない。その視点から、これまでとこれからを”いまここ”に見つめる姿勢として〔引用〕という方法に立ち返っていく意義を感じています。

佐伯 今日お話した内容以外にも、お寺には何千何万の祈りや教え、物語がありますし、それを語り継ぐための物や技術がたくさん蓄積されてきたはずです。それをいろんな形で〔引用〕しながら、人々の安心に寄り添うお寺の形を編んでいく。そのプロセスを大切にしながら、地域にひらいていきたいですね。

立田 そうですね。勝巖院は400年以上の歴史と広大なスペースがあります。この場の可能性を地域にひらいていくために、お寺側からも地域のコミュニティの場に出向いていきたいと思っています。そして、いまの地域の暮らしに耳を傾けながら、他力が気持ちよく渦巻く環境づくりを地域の人々とともに進めていけたらと思います。

語り手 : 立田歓学(勝巖院 23第住職)
聴き手 : 佐伯圭介(プロデューサー)

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