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さびしさから出発した勝巖院のルーツとその周辺の歴史

勝巖院(しょうがんいん)の歴史のはじまりにはひとりの姫の存在がありました。その姫の名を「直姫」といいます。姫の冥福を祈る。そのさびしさから寄り合い、出発した勝巖院のルーツをご案内します。


佐賀-鍋島藩ゆかりの寺院 

 勝巖院は安土桃山時代にあたる慶長2年[1597]に鏡誉上人によって開山されました。そして、その背後には佐賀藩の藩祖にあたる鍋島家によるバックアップがあった。なぜ京都から遠く離れた佐賀にゆかりのある鍋島家が当地に根づいていたのか。

鍋島家のルーツは京都の長岡に住んでいた佐々木家にあり、後に北野に転居。その子孫が肥前国(佐賀)に下ったとされています。肥前に下った理由はいまだ不明のままとされていますが、京都の北野は天満宮の鎮座するところであり、佐賀の領地が太宰府天満宮に属していたことから、天満宮となにかの縁故があった可能性が指摘されています。

お寺が開基された当時は、鍋島藩の初代・二代当主にあたる直茂– 勝茂の父子の世にあたり、父・直茂は天正十七年[1589]に豊臣秀吉より加賀守に、子・勝茂も後に(秀吉の仲介により戸田勝隆の娘と縁組するとともに)信濃守に任ぜられていました。

当院は秀吉が築いた聚楽第[1587-95]と隣接するエリアに位置し、直茂– 勝茂もその近くに屋敷を構え、その歴史は加賀屋町・信濃町の町名になって引き継がれています。

ベールに包まれた姫の存在

 その鍋島家の屋敷の一部や自愛の品が当院に寄進された。そのきっかけが「直姫」の呼び名で親しまれ、大名の娘であった姫の死でした。ただ、女性史を記述することがまだ多くない時代にあり、姫に関する情報は現在ほとんど残っていません。その名が刻まれたご位牌やわずかな文献、口伝によってその存在は語り継がれてきました。

お寺の再建に際し、令和七年[2025]の春に佐賀県や鍋島家の方々にも調査のご協力をいただきましたが、いまだに直姫がいったい誰であったのか。その特定には及んでいません。

一方で、当時の街は聚楽第の造営などで多くの武士が滞在し、彼らを対象とした歓楽街なども形成されはじめていた。姫の身分や法名からの推測にすぎませんが、礼儀作法をはじめ茶・花・歌などの文化的教養に明るい武家の娘として、大名や上級旗本を相手とする商売の指導者としての立ち振る舞いがあったかもしれない。仮説の域を出ることはありませんが、そういうひとつの姿が浮かび上がってきます。

いずれにしても、当院はこの直姫の死に際し、姫の冥福を祈るところからその物語が始まりました。たったひとりの女性を失ったさびしさからの出発でした。

姫の祈りを語る石と絵巻

 当院には姫の存在をものがたる二つの宝物があります。そのひとつがお寺の院号が添えられた「勝巖石(しょうがんせき)」。

鍋島家から寄進された自愛品のひとつで、姫が大切にした〔祈り石〕です。石といっても木が化石になった〔珪化木〕といわれるもので、自然な状態のままでは考えにくい歪な形をとり、所々が鉛のように黒光りしています。

当時は戦国から泰平の世に向かう移行期にあり、姫が身寄りの無事を祈る対象として撫でるように大切にされていたと言い伝えられています。「巖」という字源にまでさかのぼれば、祝い酒をかけるような場面もあったかもしれません。

そして、もうひとつが奈良時代に蓮糸で曼荼羅を織り、生き身のまま浄土に旅立ったといわれる伝説の姫・中将姫の縁起絵巻です。

直姫が生きた頃はまだ、女性はそのままでは成仏しにくいという差別的な見方が強い時代でした。その中で、女人往生の象徴的なモデルである中将姫の生きざまを描く絵巻の裏には、この姫を祀る當麻寺(奈良)で、姫を阿弥陀ご一行がお迎えにくる儀式を執り行う練供養の前夜にこのモノガタリを説くように。そういう文章が記されています。

直姫の存在を中将姫に重ね、託し、姫の冥福を祈る。ここに「女性の救済」にルーツをもつ当院の歴史が色濃く刻まれています。

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